音声入力日記

音声入力メインで書く日記です。実験&整理して話すトレーニング。

なぜゲームにハマったのか

なぜ僕がビデオゲームにはまっていたのかを考えてみた。これについては7年前大学の卒論でもテーマにして真剣に考えたことがあるのだけれど、時間がだいぶ経ったので考えも変わっている。今思うことをしゃべる。

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僕は自分自身を情熱量不足症候群と推察している。そして現実の失敗を恐れ何もしない傾向があることを認めている。これはかなり幼い頃からの先天的が後天的かわからないけれどバイオロジカルに規定されているなんだかの理由だと思っている。 そんな人間にとってビデオゲームと言うのは失敗しても構わない大変素晴らしい世界なのである。もっとも最近のネットワーク越しの協力や対戦のみに特化しているゲームだとそうそう気楽でもないかもしれないが、少なくとも僕がはまっていた1人でコンピュータの中で遊んでいるゲームについてはそんな事はなかった。

考え込む前に人に対して行動起こせるタイプと、考え抜いてから行動起こすタイプと、考え込んだあげく何もしないタイプがいる。言わずもがな僕は3番め。でもゲームの世界においてはそのリミッターを外すことを知覚できる。実にすばらしい。 このように僕は考えているのでゲームをすると引きこもりになるというような因果関係には全く同意しない。そもそも人付き合いに踏み出すのが苦手なタイプが単純にゲームが好きだ、はまりやすいという順序の現象が起きているだけだと思っている。この辺は心理学の研究がが多分世界中にいろいろあるのだろうけど、面倒くさいので検索はしません。卒論を書くときにはちゃんとこういうのも調べたんだけど。 僕の恋愛偏差値が極度に低いのも、失敗を恐れて何もしないでいることになれるサイクルを回すのが得意だからである。いいね、得意とかくとさらっと良いことのように見えるけど(笑)。

この年になって恋は全く経験を積んでいないけれど、それはもう残念ながら放置するとして、すくなくとも何かプロジェクトを進めると言う時に(これはあまり仕事とは関係がない)判断と行動がある程度には回るようになったのは、ゲーム感覚で失敗をできる場があって、失敗して、でもたいした失敗じゃないことがほとんどじゃないかと気づいたことで自分の認知を修正できたことが大きいのではないかと思っている。言ってしまえば経験則的な認知行動療法みたいなものである。

もっともゲームそれ自体にこのような効果を求めるのは厳しいし筋違いなのでそんなことを求めるのは反対だ。しかしゲームをすることで世の中の事象にもゲーム的なものが結構ある事に気づくようになるかもしれない。というよりもなんだか意図的にそこが気づきやすくなるようになる枠組みなり経験のデザインがもし可能なのであれば、それは凄く良い気がする。というか僕のようなメンタリティーの人が少しでも現実を生きる上で自分を救い他人の力になるチャンスを得る手助けにはなるんじゃないだろうか。

情熱こそが恋の前駆体仮説

恋と言うものも生物学的並びに進化心理学的な観点からほとんど説明がつくはずである。 こんなこと言うとロマンのかけらもない人だねと言われそうだけれども。仕方ないじゃん、実際恋が下手な以上科学の力で扱う方が楽なんだもん。したがってこれは恋が得意な人には何の役にも立たないことをお断りしておく。

恋は生殖につながっているのか? 相当にイエスであるけれども完全にイエスでもない問いだ。なぜなら恋をしなくても生殖は可能だし生殖しなくても恋は確かに存在するのだ。 進化の観点から言うと、効率の悪いものはおそらく何か別の用途に作られた機能や性質をちょっとずつ偶然きっかけで使うようになってもはや代替手段がなくなってしまったように見えていることが多い。 有性生殖も元は無性生殖しかなかったんだけれどもこのめんどくさい方法をとったほうが遺伝子が多様化して生存の確率が高まったから残ったと考えられる。 異性を追っかけて生殖を可能にしたいと思うその原動力自体は有性生殖と不可分なものとして進化して来た事は多分ほぼほぼ間違いないと思う。 だがこれは恋を説明するには不十分なのである。 僕自身の経験から思いつく事は1つある。 それは恋が先にあるのではなくて、何かの状態に到達したいと思う情熱が先にあって恋はその手段なのではないかと言うことである。 ばかばかしいだろうか。だが僕自身はそういう経験がある。というより恋が下手な理由はそもそも何かを目指す情熱自体がうまく発揮できていないからじゃないかと思っているのだ。

無論、恋は天性の産物で決まるものではない。恋愛経験は失敗を重ねて少しずつ身に付けていくものだと言うのは多くの人が言うことだし僕も聞きかじった話では多分それが真実だと理解はしている。だから経験をつまないと何も始まらないというのも頭ではわかっている。しかし行動に移すための情熱が足りない。 だが僕の場合何においても大体情熱がいかにもやしていいのかよくわからないまま来てしまった。振り返ってみると何か目標に情熱を燃やすとことがあっただろうか。これを考え出すと辛くなるのであんまり考えたくないのだがぱっと思いつかないと言うあたり大体もうわかっている。 それでも考えてみると2つぐらい情熱を持ったことがあった。1つはゲームをプレイすることであった。もう1つは身体能力を上げることだった。こうやって文字にしてみると社交性が全くないのは大変気になる(笑) 。人と触れ合うことの達人みたいな人を周りで見ると対比して自分のそっち関係の出来なさにびっくりしかしない。 それでもなお、いやそれだからこそ僕は人の気持ちがわかるようになってみたかった。それが情熱があったかどうかと言われるとよくわからないけれども、人の感情を理解して共感できることが自分を救うことにもつながるのではないかとどこかで思っているから。 こう書くと利己的な人だな。

そう思っても先ほど述べたように情熱が弱いので経験を積むサイクル自体が回らないから学習が適切に起こらない。なんという課題だ。そしてこれが課題であることに気がついたことすら最近だ。改めて考えると僕の人生とは何だったのであろう。 だがここで悲観する気持ちもそんなにはない。それはなぜかというと進化と心理の科学を愛しているから。信じているから。さっきも述べたように生殖と直接に関係ない要素はいくらでもあってそれが回り回ってた作用のおかげで人間が生き延びてきたと言うところも大きいはずなのだ。だから直接的に意味がなさそうな、そして終わっていると思えるような資質も何かの役に立ってきた可能性は結構あるのだ。情熱の不足が、ある局面では奏功していたのかもしれない。 とは言え現実に目は情熱の不足と、そしてこの仮説によればその発露の1つである恋に苦労している。恋の苦しさではなくて恋の情熱が足りない問題である。

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好きな人はいますよ。その人と一緒にいるときは楽しいし、その人が笑ってくれるときには僕も嬉しい。ただそれを恋に扱って情熱を燃やすと言われてもそれが立ち行かない自分がいる。

考えても答えは出ない。考えるな感じろ。そんな名言があったが情熱の感情的発露をうまく手ほどきして欲しいなと思ってしまうのだった。

もし情熱回路が正しく回る日が来たら、きっと僕は恋の虜になるだろう。客観的にはいい年こいて恋に夢中になる奴は大体ヤバそうだが、なににも夢中になっていないよりはずっと幸せなんじゃないだろうか。

周り回ってエンジニアリングなのではと

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無駄に熱くて勝手なことを言う。スタートアップにおいて価値を創造する以外の仕事はすべきではない。と言うよりも価値をクリエイトする仕事ができない人は行くべきではない。 偉そうなことを言っているが価値のクリエイトできない人と言うのはもちろん僕のことである。

先日読んだ本で「文明とは道具である」と言うわかりやすい切り口があった。全くもってその通りであり同意する。そして現在の情報技術に立脚したスタートアップ界隈においては価値のクリエイトにフォーカスが当たっていると言わざるを得ない。だからスタートアップにコミットするということは逆に言うと価値を生み出すこと以外何者でもないのだ。

坂本光司教授という日本の中小企業研究のフィールドワーク的手法においては最も有名な研究者の1人がいるが、その教授の著書の中で面白いのは、「優れた会社と言うのは管理業務をする人の割合が10%以下である」という経験則的な発見があって、これは実はどんな企業にでも当てはまるしスタートアップにおいてはなおその通りであると僕は感じている。はっきりって管理業務と言うのは価値を創出していない。もちろんある程度の規模になったら必要だけれどもスタートアップがどうこう言うようなことじゃないし、そこに意識が向いていてはだめだ。言い換えるとそれしかできない人がいてはスタートアップは足を引っ張られているということなのだ。

そして認めねばならない今の僕はその程度で、スタートアップで価値を出すためには例えばエンジニアリングを身に着けてチームに役立たねばならない。というより今まで何も持っていない人がやるとすると実はエンジニアリングしかないのだ。エンジニアリングは冷静に考えると難しいと思われるけれども価値の出し方がはっきりしていると言う意味ではあまり悩まなくて良い。作る。作る。フィードバックを得た上で作る。それしかない。

僕は昨年いちどエンジニアリングは自分には合わないと思ってわざわざ文面で他の人に見えるように僕は無理ですなどといったのだけれど、半年経って改めて考えてみると、やっぱりエンジニアリングしかおっさんになって大した経験もない自分に価値を出す方法は無いように思われる。でもそれは辛いことではなくて意外と面白そうだとも思っているのだ。

(写真がペンギンなことに理由はない)

採用と教育に対するイケてない思い込み文化説

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転職歴が多いからとか年齢が高いからとかで採用しなくなることに疑いを持たない発想ってどうなんだろう。 僕自身今少しだけ採用に関わっていてそーゆー思想が社内に流れているのを感じる。

もちろん年齢が高いと適用に時間がかかる可能性とか新しいノウハウを覚えるのが苦手とか後は単純に年下の同僚がやりづらいとかそれはあると思う。でもその発想って結構日本とゆうかアジアの年齢上下文化に思想自体規定されてるんじゃないのって言う気がする。なんか僕はそれが気に食わない。僕自身が結構年齢が上がってきてこれからどうなるかわからないって言うのもまぁ多分あるんだけどさ(笑)。

とは言え最近の某家電メーカーで観るようなリストラ対象になったのに中年以降になったおじさんたちみたいな「自分は偉い給料は高くもらえるべき敬意を払われるべき」なんて思ってたらそれは当然論外ですよ。そーゆーおっさんもいると思うけどそうじゃない人もいっぱいいると思うからいかにより分けるかと言う所に採用の課題がある気がしている。

思うのは採用と言うのはエネルギーとコストがかかり他の仕事をする人が片手間でやるにはあまりにも面倒臭い。しかしでは採用の専任者がやればいいのかと言うと、それも現場で必要な能力の判断基準を持ち合わせていないと合わない人をとってしまう恐れがあるのでどうなのかなという気もする。少なくとも多分スタートアップにおいてはあんまりいい発想ではないかなと思う。 僕の知り合いの方で40過ぎからガチでウェブプログラミングを独学で勉強してスタートアップに採用された方がいた。僕はその人のことを尊敬しているし採用した会社もいけていると思う。大事なのはすっぱり解雇しやすいことであり、解雇されたら失業保険なり訓練給付金なりをしっかりもらったうえでまた別の職場を探すことをが辛くないような社会になっていることではないだろうか。

別にアメリカを礼賛するつもりもないけれど日本の雇用と採用と解雇に関する文化は自称スタートアップの人たちですら古臭い文脈に支配されていることが多くて、そこを変えようぜって思う。

後は教育コストかかりすぎを過剰に恐れていないだろうか。 それこそ業務マニュアルの整備を省力化して更新をもっと容易にすることができてナレッジをシェアできれば、 そこは改善するはずだ。それができれば採用に伴う教育コストと言う言い訳はだいぶなくなるはずなんだが。 そこを効率化して、仕事に入りやすくするのが、人間を幸せにするためのテクノロジーができることの1つじゃないんだろうか。

ておくれだからこそ。

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多分第三者から見れば僕の人生は手遅れである。高校や大学で仲の良かった友達の多くはすでに結婚しており、一方僕は結婚どころかお付き合いをする相手がまずいない。いないどころか作る努力さえしていないといっても過言では無い。そしてその状態を本当にやばいとは思っていないところが本当にやばい。メタ的ですね(笑)

でも今日言いたい事は手遅れだからこそのメリットと言うのもあるんじゃないかと言うことである。自己弁護じゃないかって?その通り。まぁこれは勝手なブログだからそれくらい許してください。 1つのメリットは人生はこうあるべきだと言う典型例を他人に押し付ける気がまるで湧いてこないと言うことである。だいたいそんなこと僕が言っても何の説得力もないしね。もちろん説得力がないから言わないというわけじゃなくて本当に全然思っていないから言わないわけだけど、説得力がないと言うのはそれはそれで良いことである。

もしも僕が若くして結婚して子供がいたりしたら、そういう生き方をしていない人に対して想像力もなく失礼な押し付けをしていたかもしれない。あるいはLGBTの人たちに対する態度もそこにあるかもしれない。僕はLGBTの友達があまり多くないんだけれど、もっとそういう友達が増やせたらいいなと思っている。 あともう一つのメリットは、まぁこれはメリットと言えるか怪しいけれど、人と会うたびに「この人すごいなぁ!」と言う本音での感動を持つことができるのは、あると思う。もちろん世の中には非常に優秀だけれども気取らずに人との出会いを大切にするスーパーナイスガイがいっぱいいるのでその人たちと比べちゃうと辛くなるのでそこは比べてはいけない(笑)。あくまで自分の中でという話ね。

というわけで手遅れ街道まっしぐらですが、別に人生をはかなんでいるわけでは無いのです。今だって録りだめたアニメがいっぱいあるのでまずこれを見るまでは人生を悲しく思っている暇がない。そしてそれを見終わる頃には次のアニメが始まっているでしょうから、なんというかまぁそれはそれで良いとしておこう。

適当な日記。

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最近、といってもほんのこの数日思っている事は人間は何かを作ることに集中していることによってフロー状態に入ることができ結果的に生きている実感を感じやすいのではないかと言うことである。この何かと言うのは必ずしもフィジカルなものに限らないのではないかと思っていて、例えば木工品であるとかもちろん料理であるとか絵画であるとかかなり幅は広いんだと思う。創造性が発揮されることと言い換えた方が良いのかもしれない。

僕は進化生物学と人類史が大好きなので、仮にこの創造性の発揮がフロー状態の成立と生きている実感の獲得につながるのであれば、ではなぜそれが生きていく上でプラスになるような進化的な意味での心理を人間が持つようになったのかということがとても気になる。 おそらくこれに明白な答えを出すのはほぼ不可能なのだけれども(進化真理に関する追求と言うのはえてしてこういう傾向にありがちだが)自分なりになるべく納得のいく仮説を考えてみたいと思う。

1つには創造性の発揮こそは環境の変化を適用して生き延びるための鍵でありそれを発揮する状態に喜びを感じるようになった方が生存にプラスだったからというのが考えられる。 この考え方を使えばなぜ代わり映えのない日常がつまらないかと言うのも納得がいく。代わり映えのない日常が面白かったら創造性を発揮する余地がなくなってしまうではないか。フロー状態から得られるとてつもない快楽と満足度がきっと人とか集団の生存を助けるように働いたのである。

その割には人類の文明の進歩はあまりに遅かったじゃないかと言われるとまぁそれはその通りだ。 でもそれはやはり人類が定住を始めたこと、かつ文字の獲得とそれによる記録蓄積が可能にした生殖速度を超える知識のアップデートと広がりが実現するまでは難しかったんだろうなと思う。 ここでバベルの故事を思い出す。詳細は忘れてしまったけれど言語が1つしかなかった時代に人類がとてつもなく高いバベルの塔を立てようとしたら神の怒りに触れて雷が落ちて言語もバラバラになってしまったとかそんな話だった気がする。 これは物語だから実際人類史としてはそんな事は無いのでどっちでもいいんだけれど現代世界の1つは言語による断絶と言うものが相当に大きい事はグローバルグローバル煽られる日本人にとっては他人事では無いかもしれない。しかし実は本質的にはロジカルシンキングであるとか数学とかプログラミングとかそういった自然言語よりもっとみんなに共通する知識体系が存在しているのが世界なので素行自覚的に追求する方が大事と言うこともあるんじゃないかな。

今日の日記は何が言いたかったんだ。音声入力で適当にしゃべっているとこういう風に最初の話とまるで関係なくなっていく。酒を飲んでいるのでなおさらかもしれない。でもこれはこれで良い。これが音声入力日記。

なお写真は適当な素材。

僭越ながら〇〇させていただきます、と言わんでくれ

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「僭越ながら〇〇させていただきます」 と言う表現がある。僕はこの表現が嫌いである。理由としては誰に気をつかっているのかさっぱりわからないからである。

例えばイベントの主催者を引き受けるとしよう。それは結構大変な仕事でみんなから期待される反面プレッシャーもあるだろう。でもそこで「僭越ながらさせていただきます」と言うのはリーダーの言うことなのかなぁと疑問に思う。 役割の大きさに対して自分の力不足を感じていて謙虚でありたい、と言う日本人的な配慮はもちろん僕もわかるしそれを言うことが求められていると感じてしまう空気感もよくわかる。 でもそんなのは硬直した古臭い組織でのずれた気の遣い方なんじゃないかっていう気もする。

リーダーは大変だ。何か起こったときにやっぱり責任を取るのはリーダーだ。その一方で成功するためには私心を捨てていくことが求められる。でもそうなると今度は自分て何なのよ、と言う悩みと疲れにさいなまれることだってある。

それでも、リーダーを引き受けたのだ。引き受けたのであれば僭越ながらなどと言って自分を低く見せるような事はしなくていい。僕はその言葉からは美しさよりは空気を過剰に読もうとしている不安さを感じ取ってしまう。 もっとずぶとくていいよ。リーダーを引き受けたと言うのはおそらくほとんどの場合誰も引き受けてくれなかったからだ。その勇気と覚悟は評価されていい。 でもだから、その勇気と覚悟をもう少し延長して、自分を信じてそして他人を信じて、人と人のつながりから価値を生み出していく事に取り組むことに胸を張って立っていれば良いのではないだろうか。

と偉そうに言っているがこれは僕自身が全くできていないことなので、自分のお尻をたたいている。 僕は働きたくないし、自分に何もないことに不安で仕方は無い。 けれど、リーダーシップを発揮する時には変に空気を読むことがないよう、そして目的地がどこにあるかを自分の心に問い続けて行動できた方が多分、自他共に良い影響が出るんじゃないかと、数少ない人生経験の中からは思ってる。