音声入力日記

音声入力メインで書く日記です。実験&整理して話すトレーニング。

情熱こそが恋の前駆体仮説

恋と言うものも生物学的並びに進化心理学的な観点からほとんど説明がつくはずである。 こんなこと言うとロマンのかけらもない人だねと言われそうだけれども。仕方ないじゃん、実際恋が下手な以上科学の力で扱う方が楽なんだもん。したがってこれは恋が得意な人には何の役にも立たないことをお断りしておく。

恋は生殖につながっているのか? 相当にイエスであるけれども完全にイエスでもない問いだ。なぜなら恋をしなくても生殖は可能だし生殖しなくても恋は確かに存在するのだ。 進化の観点から言うと、効率の悪いものはおそらく何か別の用途に作られた機能や性質をちょっとずつ偶然きっかけで使うようになってもはや代替手段がなくなってしまったように見えていることが多い。 有性生殖も元は無性生殖しかなかったんだけれどもこのめんどくさい方法をとったほうが遺伝子が多様化して生存の確率が高まったから残ったと考えられる。 異性を追っかけて生殖を可能にしたいと思うその原動力自体は有性生殖と不可分なものとして進化して来た事は多分ほぼほぼ間違いないと思う。 だがこれは恋を説明するには不十分なのである。 僕自身の経験から思いつく事は1つある。 それは恋が先にあるのではなくて、何かの状態に到達したいと思う情熱が先にあって恋はその手段なのではないかと言うことである。 ばかばかしいだろうか。だが僕自身はそういう経験がある。というより恋が下手な理由はそもそも何かを目指す情熱自体がうまく発揮できていないからじゃないかと思っているのだ。

無論、恋は天性の産物で決まるものではない。恋愛経験は失敗を重ねて少しずつ身に付けていくものだと言うのは多くの人が言うことだし僕も聞きかじった話では多分それが真実だと理解はしている。だから経験をつまないと何も始まらないというのも頭ではわかっている。しかし行動に移すための情熱が足りない。 だが僕の場合何においても大体情熱がいかにもやしていいのかよくわからないまま来てしまった。振り返ってみると何か目標に情熱を燃やすとことがあっただろうか。これを考え出すと辛くなるのであんまり考えたくないのだがぱっと思いつかないと言うあたり大体もうわかっている。 それでも考えてみると2つぐらい情熱を持ったことがあった。1つはゲームをプレイすることであった。もう1つは身体能力を上げることだった。こうやって文字にしてみると社交性が全くないのは大変気になる(笑) 。人と触れ合うことの達人みたいな人を周りで見ると対比して自分のそっち関係の出来なさにびっくりしかしない。 それでもなお、いやそれだからこそ僕は人の気持ちがわかるようになってみたかった。それが情熱があったかどうかと言われるとよくわからないけれども、人の感情を理解して共感できることが自分を救うことにもつながるのではないかとどこかで思っているから。 こう書くと利己的な人だな。

そう思っても先ほど述べたように情熱が弱いので経験を積むサイクル自体が回らないから学習が適切に起こらない。なんという課題だ。そしてこれが課題であることに気がついたことすら最近だ。改めて考えると僕の人生とは何だったのであろう。 だがここで悲観する気持ちもそんなにはない。それはなぜかというと進化と心理の科学を愛しているから。信じているから。さっきも述べたように生殖と直接に関係ない要素はいくらでもあってそれが回り回ってた作用のおかげで人間が生き延びてきたと言うところも大きいはずなのだ。だから直接的に意味がなさそうな、そして終わっていると思えるような資質も何かの役に立ってきた可能性は結構あるのだ。情熱の不足が、ある局面では奏功していたのかもしれない。 とは言え現実に目は情熱の不足と、そしてこの仮説によればその発露の1つである恋に苦労している。恋の苦しさではなくて恋の情熱が足りない問題である。

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好きな人はいますよ。その人と一緒にいるときは楽しいし、その人が笑ってくれるときには僕も嬉しい。ただそれを恋に扱って情熱を燃やすと言われてもそれが立ち行かない自分がいる。

考えても答えは出ない。考えるな感じろ。そんな名言があったが情熱の感情的発露をうまく手ほどきして欲しいなと思ってしまうのだった。

もし情熱回路が正しく回る日が来たら、きっと僕は恋の虜になるだろう。客観的にはいい年こいて恋に夢中になる奴は大体ヤバそうだが、なににも夢中になっていないよりはずっと幸せなんじゃないだろうか。